12.28.2018

無題21

細かい考えを伝えようとするには、やはり言葉を使うしかない。
しかし、出来るだけ、明瞭に、新鮮に、精密に、感覚的にと心がけ、
日本語にもそれがいいと思ってきたが、これはどうも毎回上手くいかない。


西洋では、雄弁を持った偉人がいる一方で、日本では寡黙で愚直なことが良しとされ、逆に能弁は軽蔑される風があり、喋らない方が賢く、(じゃあ、やってみてと言った時に、案の定、何もできなかったと言うような話はまた別)、言語とそれを表現する間に隔たりあり、沈黙の効果を忘れないことが、品がいいと感じる国民性で、日本の国語は本来おしゃべりにはあまり向いていない。

果たして、文法的に欠陥はないけれど、「花は散る」と「花が散る」から広がる絵は、かなり違うものなのだけれど、その間隙をどれだけ悟れるのだろうか。この言葉がもたらす体感を抽象的に説明しようとするといかにも空回りしそうだ。

さて、時流に乗った話題、私のもうひとつの地元でもある高輪の新しいJRの駅が、高輪ゲートウェイになって、大不評とのこと。
できうる限り新語や造語を慎むことが日本的な美だとしたら、江戸時代の東海道の関所があった高輪大木戸の方が、人々の行き来してきた歴史ある玄関口の街という調子にもかない、素敵に思えるし、2020年の五輪に向けてゲートウェイなんて西洋語にするよりは迎合しない方が、混乱は少なく、理由が説明できれば西洋人の個人主義的な感覚にも理解に足るように思うのだけど、ひとつの言葉から想起されるそのような趣は、もはや淘汰されてしまうのでしょうか。

日本独特の言葉の魅力、物事を内輪の中にし、それが謙遜の徳にかなうという東洋流の形態は、西洋人にとって時に、不可解で、場合には不正直なように写る事もあるようだけれど、氾濫の多い昨今の癒しとなると思うし、また、異質であるが故に、それを共有してみようと試みたときに、もたらされる新しい体験の方が、有効でより伝えるべきだと、それを滔々と言ったところで、どうなんだろうと、かなり疑問だ。

私は、踊りをやっていますが、レッスンをするにしても、自分から湧き上がる何かがで心に思うことを他人に伝えるという点で、言葉は人を確実に作るので、ぜひ、使役されるのではなくありたいものです。

12.27.2018

無題20

安易に変化を求めるなんて愚か者
過去から学ばないなんて愚か者

さて、ふと立ち止まり、同じところをくるくる回っているだけとしたら
そうなるかもしれないというパターンを手放す勇気が吉なのか
という一日

盲目と言わんばかりに恋をして
傷ついても妥協することなく
欲しいものはしっかり手に入れる戦士かな



”輝かしい朝、起き抜けの啓示にて”